祭りの思い出

神出 晴夫

林がなくなる

  昭和61年、まつりの準備が始まり、市役所から水車周辺の図面を頂き会場レイアウト・交通対策の案を考えているとき、千歳川両岸に境界線のようなものが引かれているのに気づきました。何だろうと思いよく見ると線と線の交点にL14‐3・L27などの字が書いてあり、大きな弧を描きながら日の出橋から人道橋(現サーモン橋)間にその線は引かれています。護岸工事の計画線ではないだろうか?現地の状況と重ね合わせてみると水車周辺の林が全て2本の線の間に入ってます。もし計画線なら木が全部無くなってしまう。

早速、「千歳川とサケの会」の役員でそのことを話すと、調べてみようということになり、後日役所に出向き確認すると、やはり河川改修の計画線。

大変だ、水車周辺の林が無くなる。「市に陳情しよう」ということになるが、千歳市は開発局に護岸工事の早期着手を陳情している立場で、この件で開発局に陳情はできないとのこと。「それでは開発局に直接陳情するしかない。すぐに署名運動を始めよう」藤本会長の一言で会員全員での署名集めが始まりました。同時に、どのような護岸工事にして欲しいか話し合いをすすめました。林を残して蛇籠(カゴに石を詰めたもの)や石で護岸した河川庭園のようなものにして欲しいと意見もまとまり、数万人の署名とともに北海道開発局に陳情いたしました。

その結果、ルートを一部修正して頂き、水車付近で川を曲げて林を残すことになり、護岸の方法も今までのようなコンクリートではなく、周辺の風景に合ったものにすることになりました。こうして国内初の修景護岸が出来上がったのです。

あのときの千歳川とサケの会々員の熱意、藤本会長の強力なリーダーシップが無かったら、インディアン水車公園は今とまったく違う殺風景なものになっていたことでしょう。